2014年11月14日星期五
貝原俊民さん 地域中心に生活復興を
貝原俊民さん 地域中心に生活復興を
阪神・淡路大震災の記憶は、昨日のことのように鮮明に残っている。初動態勢が完敗に近かった。あの朝、最初の災害対策本部会議に集まったのは本部員21人のうち5人。「死者22名、被害拡大中」という情報だけで電話もなかなか通じず、対策のしようがなかった。悔しさ、無念の思いは忘れることができない。
当時、どの都道府県も当直はいなかった。私も神戸には地震がないという俗説に頼っていた。それでも、衛星通信システムなどの対策はしており、安易にも自信を持ってしまっていた。その思い上がりに対する天からの戒めだったと感じている。
戦後50年で中央集権型から地方分権型に社会構造が変化してきたときに地震が起きた。政府からは復興庁をつくると言ってきたが、私は反対した。復興計画は県や市町が中心となり、それを政府が支援する仕組みでなければだめだと強く主張した。
創造的復興、成熟型の社会をつくることを理念にした。道路や鉄道のハード面だけでなく、生活の復興が重要と考えた。外見的には復興はうまくいったと見えるだろうが、ソフトの部分はまだまだ十分でなかったと悔やまれる。
東日本大震災の復興は、財源も権限も中央政府が握っており、先行きが不安で仕方ない。被災者中心、分権型の復興の仕組みをつくらないとうまくいかない。
人口減少と高齢化が進む地域にいかに活力をつくるかは、日本の将来をどうするかにつながる。東北の悩みは、県内で言えば但馬地域のあすを先取りしている。
心豊かな生活を県政の基本にしてきた。互いに助け合っていく共生社会。大震災から始まったボランティアは、官主導から民自律へという象徴的な動きだった。そうした土壌が県民に育っている。兵庫はトップランナーとして日本を先導してきたし、これからもそうあってほしい。その可能性は十分にあると思う。
◆犠牲者多く「責任」 辞任覚悟で職務
2001年5月、突然の辞任表明に驚いたが、「復興にめどがつき、1月には決断して家族に話していた」と明かす。太平洋戦争末期、米軍上陸が迫る沖縄に知事として死を覚悟しながら赴任した島田叡(あきら)氏(神戸市出身)に通じる思いで職務を続けた。震災で多数の犠牲者を出し、「責任をとるべきとずっと考えていた」という。
聡明(そうめい)で毅然(きぜん)とした姿勢に職員らは「厳しかった」。県政担当記者時代、執拗(しつよう)に質問して一喝されても、後日、廊下ですれ違って「申し訳なかった」と声をかけられた。そんな心配りを思い出す。
(聞き手・編集委員 古谷禎一)
◇かいはら・としたみ 1933年生まれ。佐賀県出身。56年、東大卒業後に自治省(当時)へ。兵庫県総務部長、副知事を経て、86年に知事初当選。3期目の95年1月に起きた阪神・淡路大震災からの復興を指揮し、2001年7月に4期目途中で退任。現在、公益財団法人「ひょうご震災記念21世紀研究機構」特別顧問を務める。
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